あるところに賢者が住んでいた。彼が賢者だったことには紛れもない。なにしろ、目を開ければたちどころに現在、過去、未来のすべてが見通せるのである。もっとも、彼は彼を知る人々が何を訊ねても決して答えようとはせず、いつもぎゅうぎゅうに目をつぶっていたから、何かにつけて周囲の物笑いになっていたのだったが。
彼はしじゅう不始末ばかりしでかしていた。いつでも目を固くつぶっているものだから、目の前にあるものにのべつぶつかるのである。そのくせ、盲ではないというのだからおかしなものだ。
そんなある日──彼が賢者であることなど誰もが忘れてしまっていたとある夏のこと、彼は急に思い立ってはさみを探した。目をえぐってしまおうとしたのである。しかしはさみはどこを探しても見つからなかった。彼は目を固く閉じたままベッドの下をまさぐった。掃除がゆきとどかない床の上には、埃がうずたかく降り積もっているだけだ。彼はひとしきり咳込むと、歯ぎしりして思わずうなった。
「俺は俺が賢者であることを知っている。俺は俺の目がすべてを見通すであろうことを、確かに知っているのだ。ところがどうだ、現実の俺は、こうして目をえぐるためのはさみを探して──まるでほんとの盲のように──床の埃と埃の間を這いまわらなければならないのだ」
ある賢者の話
(02/11/24)