ドストエフスキーの生誕190年周年とやらで、「白痴」が舞台化されるというので見に行ってきました。劇場は両国のシアターΧ(カイ)。
両国は初めて行った。相撲取りはいなかった。トイレをお借りしたミニストップの店員が親切だった。
演じる劇団「東京ノーヴイ・レパートリーシアター」はレパートリーシステムと称する持ち回り制で役者がローテーションするらしく、公演のつど配役が変わる。なので、以下は僕が見た11月12日(土)の13時からの舞台の感想です。役者に対する批評とか、公演の回が違えばぜんぜん違っちゃう可能性が高いので要注意。
あと、ここから先は容赦なくネタバレしまくるので、ドストエフスキーの「白痴」をこれから読む、という人はスルーしてくれた方がいいかも。
この舞台、脚本はなかなかうまくまとまっていました。原作を切り刻むというよりはむしろ極力忠実に再現しようとした感じのストーリー展開で、あの原作巨編をあまり違和感もなく、それと悟らせずに3時間程度の舞台にまとめた手際は見事だったと思う。
冒頭の汽車のシーンだけは、やや早口の説明口調が目立ってちょっと不安がよぎったりもしたけど、そこから先は特に不自然なこともなく物語は進行していった。
原作を読んでいても行動といい言葉といい、べつだん馬鹿には見えないのに、社会のいわゆる「ちゃんとした」人々にはなんとなく阿呆扱いされてしまう主人公のムイシュキン公爵は、どこか浮世離れした調子で話す色白・細身の青年として描かれていた。役者の演技力のおかげもあってか、違和感なく見ることができました。
そしてそんな彼と愛憎深い因縁を持つことになる大商人の跡取り息子ロゴージン(劇中ではラゴージン)役は、本当に見事な俳優で。育ちの悪さと無教養、ガラの悪さ、それと裏腹に人のよい一面と、同居する欲深さ、嫉妬心、・・・ややこしい人物像をよくも見事に具現化してくれたと思う。僕はこの日の出演者たちの中でこの人がいちばん好きだった。
「白痴」といえば、この2人の男の愛憎こそがメインといえなくもないので、脚本がきちっとまとまっていて、この2人がちゃんと演じられていれば、それであっぱれ大成功、といえてしまいそうでもある。でも、この一見何の共通点もなさそうな2人の愛憎の物語には、それをとりもつ強烈な媒介が必要で。
それがナスターシャ・フィリポヴナという女性なんだけど。
この人は幼くしてトーツキーという大金持ちに拾われて養育され、充分すぎるほどの教育を受けて美しく気高い少女として成長しながらも、物心つくや否やトーツキーの妾にされてしまい、生来の鋭敏すぎるほどの感性に消しがたい傷を負っている。
それでもトーツキーの庇護の元でしか生きられないという現実と長年向き合った末に、彼女はとうとう全生活をなげうって飛び出してしまおうと決心する。ただその脱出が、平凡な出世主義者でまあまあエリートの青年ガーニャとの結婚という形を取るか、それとももっと自暴自棄のような姿になるのかは本人もまだ決めかねている。
そんな彼女のもとにムイシュキン公爵とロゴージンが相次いで現れる。
ナイーブで無知だけど同じように鋭敏な感性を持つ公爵はナスターシャに惹かれ、一方でエゴイスティックなロゴージンも彼女の魅力に取り憑かれる。でもナスターシャにとっては公爵こそ「初めて見た本物の人間」であって、世俗の垢にまみれきったようなロゴージンの愛は、それがいかに情熱に満ちたものであっても、そこに救いを見いだすことはできない。
なぜ救いにならないか。愛に理由はない、って意味ではナスターシャがロゴージンを愛してそこに救いを見いだしても少しも不思議はないわけだけど、推測はできる。
ナスターシャには誇りがある。誇りというのはべつに「卑しいロゴージンごときは相手にしない」という誇りではなくて、尊厳をもった一人の人間として生きていきたいという、ある意味あたりまえの願い。でもその願いは、青年期の屈辱によって取り返しが付かないほど傷つけられ、彼女は自分自身に尊厳を認めることができなくなっている。
都合のいい田舎妾という扱いを許さずに単身上京して、トーツキーに暗にスキャンダラスな脅しをかけ、生活の保障を勝ち得てはきたものの、そういう生き方しかできない自分自身を肯定することができず、だからといって生活上、その屈辱の発生源のような金持ちのトーツキーから離れることもできず・・・どうにもならない歳月の澱にとらわれて、「そうではない自分」をもう正気で描けないところまで傷つき、疲れてしまっている。
しかも生来の気性は激しくて、そんな惨めったらしい自分なんてものを到底容認できない。徐々に昂じていく破滅願望の中で、再生への一縷の願いも消え入りそうなところに、「今ごろになって」初めて本物の人間たる公爵を見た彼女は結局、憑かれたようにロゴージンと駆け落ちするという挙に出ることになる。
金持ちの妾の逐電といういかにもな末路、その行き先は無教養で荒っぽい大商人のロゴージン・・・ロゴージンに愛はあるとはいえ、ナスターシャとの間にあまり響き合うものはなさそうで。
結局、ナスターシャのこの脱出は、ナスターシャにしてみれば「美しすぎる」ムイシュキン公爵を蹴っての自殺的投身(これ妙な言葉だな。今なんとなく出てきた)でしかない。一方、ナスターシャを狂おしく愛しているロゴージンにとってもそれは一瞬の歓喜でしかない。
納得できないムイシュキン公爵は彼女を追う。追うといっても、もちろん公爵にも公爵の生活があり、二転三転する将来への展望があり、ナスターシャに対する感情そのものにも変動があるので、そんなまっすぐには追いかけない。(笑)
そのあたりのリアリティはドストエフスキーの面目躍如というところ。ちょっと気分屋だけど賢くて気品あるアグラーヤという将軍家令嬢と仲よくなって、結婚話らしきものが持ち上がったりもする。一方、自分自身の破滅を決定づけてしまいたいナスターシャは、陰でこの令嬢に何度も公爵を推薦する手紙を送ったりもしている。
ナスターシャが自分ではなく公爵を愛している、そしてそれは変えられない、と直感して絶望するロゴージン。そんな彼を慰めようとムイシュキン公爵は、「たしかにかつては彼女を愛していたけど、今は哀れみがあるだけだ」などと語ったりもする。たしかに少なくともその瞬間は、公爵自身も持ち前の生真面目さで自分の言葉を信じている。
でも、現実はそうもいかない。ナスターシャは不幸だし、破滅しかけているし、本人もそれを知っている。そして公爵もそのことをわかっている。
公爵はアグラーヤに惹かれつつも、ナスターシャにも惹かれ、同時に彼女の破滅を予感して、見放すことはできない。そしてロゴージンもまた、ナスターシャが自分を頼ってはいても決して本気で愛してはくれないこと、本当は公爵に救いの一縷の可能性を見いだしていること、しかしそれを捨て去ろうともだえ苦しんでいること、ぜんぶ本当はわかっている。
わかっているけど、どうにもならない。そういう3者の関係性の中で離反や衝突が重なって、物語は進行していくわけだ。
さっきムイシュキン公爵も、ロゴージンも見事に具現化されている、と書いた。ではナスターシャは、原作ではなくこの舞台「Idiot」におけるナスターシャは、どうだったのか。ここが本題。
この劇中でのナスターシャは、気品も教養も矜恃もない自堕落であたら生命力だけが強い女性が、生活に疲れて手が付けられないほど居直ってしまった、という案配のキャラクターとして描かれます。(笑)
本当に、そうとしか書きようがないほどに、この舞台でのナスターシャの描かれ方には魅力がない。ナスターシャの非凡さや異質感がもののみごとに無視された演出になっている。
物言いは、初登場から終わりまで一貫してガラッパチ。立ち居振る舞いも終止乱雑で、そこには気品も矜恃も感じられない。そして何よりまずいことは、その結果として、物語の重大なターニングポイントの1つ1つが、話の筋として「成立しなくなって」いることだ。
ムイシュキン公爵はなぜ、無教養なロゴージンをとりこにし、一方では育ての親でもあるトーツキーを何年にもわたって暗に脅迫するような、いわば魔性の女であるナスターシャにそこまで肩入れするのか。
露骨に拒まれた後ですら、どうして見捨てるに見捨てられず執着し続けなければならないのか、という事情が、動機が、根本から消えてなくなってしまう。
「白痴」本来の物語からすれば、ナスターシャもロゴージンもムイシュキンも、「そうなるしかなかった」。ナスターシャの逃亡も、ロゴージンの葛藤も、ムイシュキンの未練も。
でもこの舞台「Idiot」では、2人の男性キャラクターが見事に具現化されているのに対して、ナスターシャをはじめとする女性たちの描かれ方が信じられないほど安直で類型的で、ナスターシャに至ってはその「類型」の選び方にすら疑問符がつく。
天性ガラッパチの舞台版ナスターシャが公爵の愛を拒んで品のない金持ち商人(愛はあるが)のロゴージンと駆け落ちしても、そこにはそもそも違和感がない。「あーあ、公爵かわいそうに、悪い女に恥かかされちゃって」ってだけの印象しか残らない。
だからその後の公爵の、ナスターシャへの尽きることのない執着にも葛藤にも愛にも、観客は理由を見いだせない。
原作のナスターシャには鋭敏な感性と傷ついた誇り、気品、磨かれた知性と教養、といったものがたぶん極端なくらいに備わっている。生来の美貌も相まって、出自以外の点では、その気になればどんな貴婦人よりも貴婦人然として映るはずの人間として描かれている。
その彼女が、自分をおとしめた元凶たるトーツキーに衆人環視の中で悪罵を浴びせたり、ロゴージンが愛の証に贈った札束を暖炉に放り込んで立ち騒ぐ人々を嘲笑ったり、待ち焦がれた救いであったはずの公爵の求愛を蹴ってやくざ者のロゴージンと駆け落ちしたり、さらにそのロゴージンの元からさえ逃げ出したりすることで、読者は激しい違和感を覚え、傷ついた誇りの痛みを感じて、破滅への予感をムイシュキンと共有する。
その違和感こそがムイシュキンの執着の理由であり、同時にナスターシャが彼に応えられない理由も、ロゴージンの愛が決して満たされない理由もそこにあったはずだと僕は思ってる。
物語のすべての転換点はそこに起因しているので、ナスターシャが「ただのガラッパチ」になってしまうと、この物語はそもそも「存在しなく」なってしまう。
ところが、この舞台はまさに・・・「存在しない」んだな。(笑)信じられないことに。
男しか眼中にないんじゃなかろうかこの舞台、と思ってしまった。
男しか眼中にない、とまでいいたくなってしまうのは、安直で類型的だったのがナスターシャ1人ではなかったからだ。もう一人、さっき少し触れた将軍家の令嬢でナスターシャに次ぐ重要な女性キャラクターであるアグラーヤの描かれ方もひどかった。気の毒に、ただの「感じやすい」「少々頭の弱い」公爵に恋する女の子、にされてしまって。
四六時中ダン!ダン!と足ばかり踏み鳴らして、盛んに感情的に声を張り上げ、なにかといっては泣いてばかりいる。
そんなアグラーヤとナスターシャが対決して罵り合ってみたって、それが何になる?(笑)この舞台に魅力的なヒロインはいなかった、ただの一人も。ドストエフスキーの「白痴」なのに、だ。この点については激しい不満が残る。
このナスターシャやアグラーヤの失敗は、絶対に女優の責任ではないだろうと僕は思ってる。脚本だか演出だか知らないけど、明らかに制作意図そのものの中に、誇り高いナスターシャの姿がなかったとしか思えない。
ナスターシャには違和感が必要です。
むしろこのナスターシャという人物のはらむ違和感こそが、「白痴」という物語の存在理由。その意味でこの舞台「Idiot」は、存在理由を失った白痴、とでもいうよりほかないものだった。
ロゴージン役の怪演が本当に惜しい。